日本共産党あきる野市議団 戸沢ひろゆき 山根とみえ たばたあずみ
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庁舎から市内北東から北西方向

日本共産党あきる野市議団の歴史

旧秋多町時代の1967年前、多西地区・原小宮に住む青木浩吉さんが日本共産党公認として初めて町会議員に当選、逸話話では、それまで議員に弁当が公費で出されていました。「弁当と怪我は、自分持ちが当たり前だ」と主張し、公費での食事が止まりました。勿論、秋留台地の農地を守る先頭に立ちました。
1971年の町議会選挙で青木浩吉さんとともに、美濃部革新都政が誕生し複数議席をめざして挑戦。影山保さんがトップ当選し青木浩吉議員とで複数議席を得ました。
 1975年に戸沢弘征さんが横河電機に勤めていましたが議案提案権をかけて出馬し当選、3人となり議案提出権を獲得しました。
 1979年に青木浩吉さんから交代した片野坂勝代さんが議席を守りぬき、共産党から初めての女性議員が誕生しました。女性の声の代弁者として市政革新のため片野坂勝代議員は3期12年貢献してきましたが、健康を害し平成2年の市議会選挙前に勇退し、松平重幸氏がバトンタッチしました。松平重幸さんは60歳での挑戦でしたが見事当選。秋川市時代は3名での議案提案権をもち、「緑の条例」の提案や「不均一課税条例」の提案などや、市の広報紙に地元企業からの広告を載せて自主財源を生みだすなど積極的な条例提案や提言し実現させました。

 旧五日市町に於いては1971年に小金井市から移り住み、共産党議員が空白自治体だった五日市町に鈴木富雄氏が議席を得て奮闘、東京都の最西地域で政治革新めざし活動を展開しました。

 平成7年、秋川市と五日市町が合併し4議席となりました(秋川市3名、五日市町1人)。合併当時の市町の議会議席は36名でした。
 2001年、議席が26名となった第2回あきる野市議会選挙で、松平重幸さんから山根とみえさんに、鈴木富雄さんから二宮和子さんに交代し現有議席を守り抜き4名の議席を得ました。

2005年、議員定数が24名と減員され、二宮和子議員からの勇退の希望が出されました。1期しか勤めなかったことから、五日市地区に住む市民の方から残念だという声が起こりましたが本人の希望に応えました。
 

合併前の2市町で36議席に対し4議席でした。合併後の定数が10名、さらに4年後2名削減。現在24人定数のもとでの3議席ですが、直近の市議会選挙において得た得票率は過去最高を得ました。

2009年6月の改選においては、さらに定数が減らされ21議席で選挙が行われます。この市議会議員選挙において38年間、日本共産党議員として奮闘してきた影山 保議員が勇退し、34歳、3人の子どもを育てる若い女性にバトンタッチします。

市議会の議席数が選挙のたびに減員されていますが、自民党・公明党の支持を受けている保守系市長のもとで、「市民が主人公」の民主・革新の立場で、行政を監視しチェックする日本共産党市議団として、オール与党の市議会の中で積極的対案を示して、存在価値を高め奮闘しています。

 2002年5月3日青木浩吉さんは逝去しました。市議会議員勇退後、地元老人会の副会長、ゲートボールの選手として元気に活躍されてきました。

1991年に青木浩吉議員からバトンタッチし3期勤めた片野坂勝代さんは、平和と女性の地位向上のため活動する新日本婦人の会の役員として地域で頑張っています。レイラの化粧品担当を引き受け活躍、広く女性から慕われています。

 2005年に勇退した鈴木富雄さんは、議員として8期、党の元地区役員として、市議団の指導にあたっています。趣味だったスキーは、指導員の資格も取り、冬はあちこちのゲレンデで初心者や高齢者、子どもたちのスキー教室の先生として活躍しています。

2009年勇退した二宮和子さんは、自由法曹団事務局員として勤務、現在は民主団体の職員とし、平和と民主主義、女性の地位向上と中小商工業の振興のため頑張っています。

 松平重幸さんは西多摩青梅地区常任委員及び党あきる野市委員長として現在も活躍、党市議団の指導をしてくれています。

 
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