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市議団長の影山 保 市議会議員が、03―9月定例市議会で五日市憲法草案づくりとその意義、歴史的評価を行い、まちづくりの原点としようと呼びかけ、積極的提案を行政に行いました。  ここでの解説は、「まさやんのページ」を記載しました。写真は8月29日、商工観光課長の案内で現地を訪問、その時の写真です。
 
 
 
まさやんのページより
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私擬五日市憲法草案について
私擬五日市憲法草案
  憲法草案が発見された 深沢家土蔵当時は朽ちかけていましたが、今は改修されています。
  昭和43年東京経済大学教授色川大吉氏らにより、五日市深沢家 旧宅の土蔵より発見。人権意識の成熟度において、既存する民間憲法中屈指のものとされ、民衆憲法として反響を呼び起こした。発見者らによって「五日市憲法草案」と名付けられた。

  全文204か条。(大日本帝国憲法76条、日本国憲法103条)
 
明治13年11月10日第二回国会期成同盟大会が東京において開かれ、その際、憲法起草が議され、 翌年(明治14年)10月に予定された第三回大会に、各自草案を持ち寄ることが決議された。これを額面通り に受け取ったのが、五日市の民権家たち、中でも千葉卓三郎であったかと思われる。 五日市憲法草案の下敷きとされた櫻鳴社の草案は土屋勘兵衛が13年12月13日手に入れている。

条文
・ その45「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス 可シ。」
自由権の規定であり、現行憲法と同じ視点に立っている。
・ 48「凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ、同一ノ保護ヲ受ク可シ、 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ。」
平等権の規定、その後発生した華族制度 を見抜いた警世の条文である。
・ 76「子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授は自由ナルモノトス、然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄 タル者ノ免ル可ラサル責任トス。」
教育権と義務教育が規定されている。国家による教育内容の画一 統制は明らかに否定され、教育権の所在は教授者と親権者にあることが示されている。
・ 77「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ府県の自治ハ各地ノ風俗習例ニ 因ルモノナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス。」

地方自治の条文である。中央集権に懸命であった明治政府にはまったく考えられない条文である。地方の 自治は国会の権限をも凌駕するというもの。アメリカの州と連邦政府との関係に近い。

・ 86「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス。」

国会の天皇に対する優越を明確にした条文である。五日市憲法は体裁上は君主主権を認めながら、 運用面で君権と民権と競合した場合、民権にくみする憲法であった。

・ 194「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ。」

国事犯、政治犯を死刑にしないという権力批判者に対する精一杯の保護規定を設けた。
・ しかし、国帝の権利については明治憲法よりも強い側面もあり、また、50名の元老院 (第二院)は勅撰議院で終身官であるという問題点もあった。
政府は明治14年10月、自ら進んで10年後の国会開設を約して、自由民権運動の気勢をそらした。 同年10月に予定されていた第三回の国会期成同盟大会はこのため混乱し、自由党結成大会に切り替わり、 のせっかく用意した憲法草案の審議は全くなされずにしまった。民間の憲法草案は他に40数種発見されて いるが、この五日市憲法草案のようにどういうグループが、どういう内容の検討会を開き、どういう本を 参考文献として読んで、誰が起草したか、その起草者を誰が助けたかなどということは、わかっていない。

千葉卓三郎  市庁舎前の記念碑

嘉永(1852)年6月17日、宮城県志波姫町に生まれ、仙台藩校養賢堂に学んだ。
・ 明治1年(1868)戊辰戦争に参戦(敗戦)。
・ 明治1−2年石川桜所に医学、鍋島一郎に皇学を学ぶ。
・ 明治2−4年桜井恭伯に浄土真宗を学ぶ。
・ 明治4−8年魯人ニコライにギリシャ正教を学ぶ。この間上京。
・ 明治8−9年安井息軒の門に入る(儒学)。
・ 明治9−10年仏人ウィグローにカソリックを学ぶ。
・ 明治10年(1877)福田理軒に洋算を学ぶ。
・ 明治10ー12年米人マグレーにプロテスタントを学ぶ。この頃、秋川谷各地(大久野、草花、 川口)で教職に従事。
・ 明治12ー13年12月より4月まで東京麹町にて商業に従事。
・ 明治13年(1880)4月下旬五日市に下宿。五日市勧能学校に勤め始める。
・ 同じ頃五日市学芸講談会結成。 11月第二回国会期成同盟大会(私擬憲法草案作成決議)。12月土屋勘兵衛、櫻鳴社憲法草案入手。
・ 明治14年(1881)1−6月?五日市憲法草案起草。6月五日市を去り、 奈良橋村に住む。10月国会開設の詔勅。勧能学校にもどる。
・ 明治15年(1882)結核進行。療養始める。8月深沢権八ら自由党に入党。
・ 明治16年(1883)11月12日本郷竜岡病院にて死去。31歳。

五日市町の勧能小学校訓導となり、たまたま遭遇した全国的な自由民権 運動の波の中で、五日市の学習結社、五日市学芸講談会の有志らと共同し、私擬憲法草案を作成した。 父宅之丞は仙台藩の下級武士。
明治22年伊藤博文作るところの明治欽定憲法が 発布され、翌23年国会が開設された。また、同年教育勅語も発布された。

深沢名生、権八
深沢村名主、深沢名生(なおまる)の長子。文久元年(1861)生まれ、勧能学舎第一期生。 明治7年地方制度が改正され、大区小区制が施行されると、13歳で深沢村(戸数20戸ほど)の代議員 となり、さらに二年後は15歳で深沢村の村用掛り(村長に相当)に任ぜられている。
深沢家は千人同心 の株ももち、当地方の有力山持ちでもあった。当主名生は理解力に富む、開明的な思想の持ち主と見え、 材木などの商用で上京した節に買い求めたと思われる大量の書籍を蔵していた。
色川先生が土蔵を開いた ときにでた多数の書籍は、権八の購入したものもあったとおもわれるが、いずれにせよ稀にみる高級な 蔵書家であった。(当時東京で出版された新刊書のうち7,8割はそろっていた。)
卓三郎と深沢親子 との出会いの時期は明治8ー10年頃と思われる。父名生は卓三郎を認め、子権八は卓三郎に惚れ込んだ ようであった。
とくに早熟な秀才権八の私淑ぶりは大変なもので、両人との出会いは卓三郎の生涯に大きな幸をもたらした。五日市村の北の渓谷を4キロ近くも入り込む山村のインテリ親子は卓三郎を もって知的飢餓をみたす格好の対象としたのだろう。
のち、自由党に入党し神奈川県会議員であったが、 明治23年29歳の若さでこの世を去った。その墓は同士が建立したとみえ、「権八・深沢氏之墓」と書かれ ている。

学芸講談会
明治13年4月に設立されたと推定される。東日本を代表する櫻鳴社という民権運動の結社が 同年1月八王子支社を設置したことが、直接の動機ではないかとみられている。
規約によると会の業務 は外来の講師(弁士)を招く、会員相互の討論会を持つ、学習のための書籍を購入する等々である。
会員としてあげられている39名は名主や組頭家の跡取り息子が多い。年齢構成も、20代以下が四分の三を しめている。内、大地主は3,4名、あとは中農、土地を全く持たない者もいた。五日市のみならず、 周辺の村々、青梅、八王子、横浜などからも参加している。
権八手書きの討論題集(63項目にわたっている)が残されており、そこには、
・ 憲法は国民がきめるのか、国王がきめるのか
・ 議会は一院制がいいか、二院制がいいか
・ 女帝をたてることはどうか
・ 皇居は東京に置くべきか、田舎に置くべきか
・ 衆議院議員に給料を払うべきか、払うと悪いことをするか
・ 死刑は廃止すべきか否か
・ 人民に武器を与えてもよいか
とある。構成員を特徴づけるものとして、教員グループの参加がある。

五日市の当時
戦国末期、(1574年ごろ)5の日の定期市が開かれており、この定期市によって地名が名付 けられた。
徳川時代に入って、江戸に大消費都市が出現し、五日市は炭の取引市として再興され江戸を取り巻く地廻り経済圏の一環として繁栄した。
秋川谷の炭の生産地は檜原・養沢村などの山方 である。五日市は炭と穀の交換市となり、山方と里方の出会いの場となった。五日市村の百姓たちは市の 場所代稼ぎに甘んじないで、取引に介在する商人となり、さらに江戸中期(享保20年・1735年)、炭の 物品税の取り立てを委任されたことから専売権をもつ炭問屋に成長した。
炭以外の秋川谷の主要産業 に山地を利用した林業がある。江戸中期頃から杉、桧の林業が盛んになり、木材は筏に組まれ、秋川から 多摩川を経て江戸へ運ばれた。
この林業は有力な元締め(材木商)を生み出すと同時に多数の農民に 林業労働者としての雇用の機会を提供した。今一つ秋川谷の重要産業は、江戸後期盛んになった黒八丈 という絹織物である。八丈織りの技法をまねたものらしいが、泥染の絹織物で高価で、通称「五日市」 と呼ばれ、全国に流布した。
主要地は秋川・平井側流域で、製品は五日市、八王子を経由して全国 ルートに乗った。五日市はそれぞれの取引に主役を占め、近世を通じ、この谷の主邑としての地位を確立 してきた。
五日市村の有力商人の中には卓越した金融力もって、広大な山林を所有する富農も発生した。
近世後期になると、貨幣経済の農村への浸透により、秋川谷に限らず各村に富裕な農民が発生している。 彼らは有力な土地所有者であると同時に、酒屋・質屋・穀屋などを兼業し、その多くは名主・組頭の役を もつ村役人層に属した。富農=在方商人=村役人という三位一体の家々が、自治体としての村々を実質的 に支配し、運営してきた。
秋川谷は多摩川という大動脈によって川崎方面と直接結ばれていた。当地方の 人々にとって、文明開化の根源地、開港場横浜は案外手近な場所であったと思われる。五日市村より 4キロも山奥の深沢村の名主深沢家から手書きの蒸気船図も見つかっている。また、内山家の土蔵にも 安政条約の全文が筆写されたものがあった。とりわけ深沢家には幕末から明治初期に発刊された翻訳書籍類 が多数所蔵されていた。
これは、当地域のエリートたちが外国文化に対して示したもっとも優れた 反応の実態である。
なお、幕末期の五日市地方(16ヶ村)には33名の千人同心がいた。(五日市町史)学芸講談会員の中にも4名がいた。彼らは農民と武士の二重の性格をもち、一般の百姓とはどこか違った 視野と意識の所有者であった。
各地に発生した学習結社は、変革期にともなう知的欲求に対応するもの であり、頭の柔らかな若手の村役人層を中心に結社され、活発な活動が展開されていった。
維新政府が村方へ指示した主要施策に、明治5年の学制令がある。知識を世界に求めるという五箇条 誓文の具現を目指したもので、明治政府のよき意味での夢が込められた施策である。
もっとも、学校の設置は財政力貧弱な維新期の村方に大きな負担を背負わせたことは否めないが、 ほとんどの村方が、若手の意欲的な学舎世話役を選任し、建設的な対応を示している。
この新制度の要となった教員は、いわば新知識の学習熱に答えるに足る学識者が渇望された。
明治6,7年に五日市の旧村16カ所には、五日市勧能学舎ほか、5学舎が設置された。教員は在地の 人よりむしろ外部から招かれたものが多く、勧能学舎では、仙台藩士が多く招かれた。
また、五日市の山奥の乙津村の日新学舎には会津藩士が勤めていた。(会津の藩校名も日新という)
明治13年3月、第一回国会期成同盟が結成され、この全国的熱気が秋川谷にも波及し、学芸講談会の 結成につながった。

参考文献
・ 「五日市憲法草案の碑」建碑誌  「五日市憲法草案の碑」 記念誌編集委員会編
・ 「五日市町史」  五日市町史編纂委員会編
・ 「民衆憲法の創造」  色川大吉他2名共著  評論社
・ 「父が語る五日市人のものがたり」  石井道郎著 けやき出版
 
 

 

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